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不登校児の反抗期 長女の反抗の現れは『無気力』

不登校児の反抗期

中学2年生と小学5年生の娘達

娘達の反抗期は不登校という形で姿を現した

 

不登校は一種の反抗の現れ

???

 

かのように思えていたが

不登校はあくまできっかけに過ぎず

起爆剤のようなもの

 

娘達の反抗はもっと根が深く

私の中にもその根を這わせていた

 

 

長女の反抗期とその態度は

一般的に想像していたのとはちょっと違った

 

攻撃的な態度や暴言を吐くといったことはない

まぁ所詮 女の子だからそんなものかもしれないが・・・

 

私は

『クソババァ、クソジジィ』

『ムカつく、死ね』

こんな言葉を浴びせられると

勝手に想像していた

 

ストレス発散の為に

モノが投げられる

壊されるといったことも想像していたが

これもない

 

そしてそれにいちいち反応して

『キィ~』ってなっている私がいるはずだったが

どうやら妄想のよう

 

思春期の子を持つ親の宿命と思い込んでいた妄想は

私には巡ってこなかった

 

長女が暴言を吐くことはないし

モノへの八つ当たりもない

 

一体何がどう反抗の状態なのか

全く分からないといった様子

 

思わず反抗期に突入してるのかなと

疑いたくなる

 

でも確実に長女は反抗期に入った

 

 

長女の反抗期はどうやら

無気力という形で姿を現した

 

概ね何に関しても覇気がない状態

 

と言っても

何もしていないというわけでもない

 

生活するために

自分でご飯を用意したり

自分の洗濯物を干したり

部屋の掃除をしたり

最低限自分の身の回りのことは

自分でやっている

 

 

また 自室に引きこもることもない

一日のほとんどの時間をリビングで過ごしている

 

ただなんとなく

何を言っても

反応が薄い

 

反応したかと思えば

すっごくやんわりとした反応で

聞いてますか?って

顔をのぞき込みたくなるくらい

反応が薄く無表情になってきた

 

最初それが反抗期だって気付かずに

イラッとしていた

 

”おいっ 無視か?”ってね🤨

 

でも様子を伺っているとだんだんと分かってきた

これは反抗だ

 

正解か不正解かは分からないけど

反抗期だと解釈したら

特別苛立つこともなくなった

 

長女の態度は

私と主人、祖父母に対してだけ

無気力な表情と態度を示すようになってきた

 

唯一次女の前だけは

優しい長女の姿がたまに顔を出す

 

なんやかんやと

夏ぐらいから長女の軽い無気力状態が顔を出し

最近少し和らいできたところ

 

 

 

母親の私が今まで長女の心の扉をガッチリと押さえ

開かないようにしていた

 

長女の心の扉を重く開かないようにしていたのは

紛れもなく母親の私だ

 

ずっと閉められた扉が

不登校をきっかけに少し開いた

 

その開いた隙間から

私がこっそり覗き込んだ

 

ある種の興味本位

閉めていた扉を私が開けようとしたら

いとも簡単に開ききってしまった

 

ここぞとばかりに開いた扉の先には

長年 溜まりたまった長女の意思が

存在していた

 

そして気付いてしまった

 

長女にもちゃんと意思がある

ということに・・・

 

当たり前なようで不思議な感覚

 

何もわからない子どもだから

一からすべて知識を与えないといけないと思い込み

私達の持ってる知識を与え続けてきた

 

その知識の山は扉の向こうにあると思っていた

 

長女を形成しているのは

今まで知り得た知識や経験だと思い込んでいた

 

でも違った

 

私の知識の山は

長女の心の扉の前に積まれていた

単なるお荷物

 

扉の前を塞ぎ

長女の奥底にある意思を

通せんぼしていたのは私

 

扉の前に積み上げられていたものは

親の勝手なエゴと

クソみたいな親の大人の価値観

 

長女の意思は

扉の向こうにちゃんと存在していた

 

 

不登校をきっかけに

私の中にある価値観が変わり

扉を重く塞いでいたのが私自身であることを知った

 

そしてそれが悪害だと気付いたため

私自身を長女の中から追い出した

 

長女の意思をごっそりと扉の外に吐き出させたら

再スタート出来るんじゃないかと思った

 

だから幾度となく

言いたいこと

思っていること

全て吐き出していいよ

そのまま受け止めるからね

 

長女の意思、気持ちを受け止めることが

本来の親の務めだから

かまわず吐き出してごらん

 

と簡単に言ったものの

それを吐き出したところで

あまりスッキリはしていない

 

そう 何かかが違う

 

本来の自分に出会ったはずなのに

なんだかモヤモヤしている

 

そのため無気力状態になっている

 

今の自分の感情に対面することは出来たが

今まで自分の感情に蓋をして生きてきたため

その感情をどう受け止めて良いか分からないようだ

 

”これは好き”

”これは嫌い”

これくらいのことは簡単に分かるし言えるが

その理由まではよく分からない

 

そして好きなものに対しての理由は

なんとか具現化出来るようだが

嫌いなものに対しての理由は

具現化することが難しいとのこと

 

自分の考えを表現することも

受け止めることも未経験なため

何も言えなくなってしまう

 

おそらく

嫌いな理由が分からないわけじゃない

そんな風に嫌いだと言うこと自体がダメなことだと

思い込んでいるため

自分の感情を表現しづらい

 

言葉に出して吐き出したい反面

それは言ってはいけないとか

そんなことを考えてはいけない

といった概念が

思い込みが先に立ち

自分自身の深掘りが難しい様子

 

重たい感情が扉の向こうにあるのに

それを吐き出すのが怖くて

扉の奥に留まろうとしている

 

私はその感情を外に吐き出すのが

一番楽で一番手っ取り早いと考えていた

 

でもこれはこれでいろんなことに向き合わざる負えなくなるため

しんどい作業

 

自分が大人の反抗期を迎えた当初は

なんでもかんでも思っていることを吐き出せばいいと

考えていた

 

そしてそれで事が治まると思っていた

反抗期とは反抗すればいいのだと安易に考えていた

 

吐き出したら楽になれる

吐き出したらスッキリして

次に進める

 

でも重たい暗い冷たい感情は

向き合うだけでもエネルギーがどっと持って行かれる

 

その感情が自分の中にあるということを

認めるだけでも

案外辛い

 

誰だって楽しい感情に溢れていたい

冷たい感情は持ちたくない

そんな冷たい感情を持っている自分を受け入れることは

さらに自分を冷たく重くする

 

それがしんどくて

長女は思考を停止させ

無気力になっていった

 

 

不登校の当初は私が全ての原因だと知り

娘達ではどうすることも出来ない現実は

私が対処してきた

 

学校に行かないことで生じる問題など

全て親の私が代わりに始末してきた

 

でも反抗期は

私が変わって終らせることはできない

 

いくら家族感でギクシャクして

生活しづらくなるとは言っても

私が全てを丸く治めようとすることは

長女の自己の形成を邪魔することだと理解している

 

現に私が両親に対して

共依存関係を絶ちたいと考えた時

私の安全地帯である主人は私の話を聞くだけで

私に理解を示すだけで

『じゃ~言いにくいことは代わりに僕が話そうか?』

とは一度も言わなかった

 

そう自分の感情は自分で始末しなきゃいけない

自分のことは最後には自分でどうにかするしかない

 

きっとそれが必要な時なんだ

 

常に行動を起すのは自分

自分の反抗期の体験で

そう実感している

(まだ終っていないけどね💦)

 

だから長女の反抗期も

長女が自分で考え自分で終らせるしかない

 

いくらどんなに味方がいても

誰も変わってあげることは出来ない

 

とは言え

長女はまだ始まったばかり

焦ることはない

これから沢山のきっかけと沢山の時間を使って

自分で考えていく

 

私はその時間をじっと待つ

 

私は長女の扉の前に積み上げた重しを

どかすまでしかできない

 

その先は私が関わると

今までの流れで勝手に背負い込むし

長女もしっかり自分と向き合えなくなるため

関わらないことが一番

 

ここからが完全なる放置

 

ただなぜ放置しているかは

ちゃんと伝えた

 

これを伝えないと

長女の中に疎外感が生まれ

自分の気持ちに向き合うどころではなくなる

 

勘違いからの不安感に襲われないため

私の考えはしっかりと伝えた

 

長女が一人で自分と向き合うために必要な時間

自分を知るためにはこの時間が必要なんだということを

 

誰かと常に一緒にいることは

いいことばかりじゃない

自分を見失う時もある

いやいや、今までが見失いすぎていた

 

周りに合わせすぎて

自分を見失っていた

またその方が楽だったから

楽な方に流れてしまっていた

 

そこへ反抗期という自分と向き合う時期がやってきた

軌道修正できる唯一の時間

 

学校へ行っている時は

この時間の確保が出来なかった

 

塾や習い事はしていなくても

一人になる時間がなかった

一人で悶々と考える時間がなかった

 

毎日慌ただしく決められた時間に合わせて生きていた

学校と家の往復でもあっという間に

一日は過ぎる

 

子どもの時から自分と向き合う時間は

いつだって大切な時間なのに

私はそれを知らなかったため

娘達にその時間を用意してこなかった

 

今考えれば

これでもかってくらい

考える時間を与えなかった

 

暇な時間が出来れば

勉強、お手伝いとガッチガチに

詰め込んできた

 

勉強させていないと

何かさせていないと不安で

暇な時間

ぼーっとさせる時間なんて

与えてこなかった

 

私がこのボーっとする時間の有効性を知らないがために

大切な時期を先延ばしにしていた

 

でも今 長女は

これでもかっていうくらい

ぼーっとしている

 

今が長女にとってこの時間が

必要なことなんだ

 

少しずつ少しずつ

自分と向き合う方法を身につけ

自分を理解していく

 

考えることが得意ではない長女にとって

かなり疲れる時期になってきた

 

それでも今ゆっくりと反抗期を過ごしている

 

この時をすっ飛ばすと

私のようになるよ

 

だからゆっくり自分のペースで反抗してください

私はそっと見守ります

 

それが私の役目です!

 

 

 

不登校=フリースクール? 我が家がフリースクールを利用しないワケ

★なぜ不登校ならフリースクールへ となるのか?

 

子どもが不登校になると

大体選択肢の1つとして浮かび上がってくるのが

フリースクール

 

フリースクール 簡単に言えば

不登校の子どもたちを受け入れる教育機関

めっちゃざっくりとした言葉

 

目的も規模も費用もさまざま

出席認定は在籍校の校長先生の判断に委ねられ

フリースクールに通うことを在籍校の出席とみなすかは

校長先生のさじ加減らしい

たぶん概ね出席とみなされるようだけど

 

ただこの出席日数って何に必要かって話だよね

中学生なら高校受験

高校生なら大学受験

そのくらいにしか私は思っていない

 

我が家の娘達は高校への進学は

まったく頭の中にはない

だから自然と出席日数に目が向かないし

関心がない

 

となると出席日数をなんとか確保するために

フリースクールへ通わなければ 

という発想も生まれてこない

 

出席日数を気にしないなら、必要ないなら

フリースクールへ行く必要はないじゃん

ってなる

 

だけど大人はそれだけじゃない

 

いろんな経験をさせたい

いろんなものに触れさせたい

何がどう転ぶか分からないから

とりあえず学校へ行って欲しい・・・

そんな風に心の中でほざいている

 

そうだぶん私はそうほざいていた

そして学校へ行かない娘達が家にいるのが面倒で

手放したかった

 

正直手放したい、自分が自由になりたい

親の責任と思い込んでいることを

さっさと手放したかっただけ

 

なんとも無責任な親

でも仕方ない

これが私で

これが正直な気持ち

 

 

フリースクール』はほぼほぼ自由なイメージ

特別決められたものはない

だからそんなフリースクールくらい通えるでしょって

親は安易に思ってしまう

 

普通の学校へは行けなくても

自由で勉強もない学校なら行けるでしょって

安易に考えてしまう

 

当初の私がそうでした・・・

それで娘達にとってフリースクールが必要かどうかを

考えてみた

 

とりあえずは一般的な『フリースクール』へ通う

メリットを探してみた

 

フリースクール』のメリット

フリースクールの出席が在籍校の出席と同等の扱いとなるため

進学したい子どもにとっては大切な出席日数を確保出来る場所となる

・社会からの孤立を避けられる

・子どもの身の安全を確保してもらえる

・好きな事をやらせてもらえる

・苦手なことは無理にはやらされない

・人との繋がり関わりで心の成長ができる

そして何より一番は子どもの居場所の確保

 

ネットやYoutubeで調べた時はこのくらいの感触で

この程度の認識

それは今もあまり変わってはいない

だから我が家にとってはあまり興味が向かなかった

 

実際『フリースクール』への見学は行ってはいない

我が家から自転車で通える距離に

フリースクールはあるらしい

 

そのフリースクールは小さな学校のような建物

どこかのビルの一角、アパートの一角

古民家のような作りのフリースクールではない

 

ちょっと規模を縮小した感じの小学校のよう

家庭科室、実験室、小さな校庭がある

こぢんまりとした空間

 

生徒は大体20名ほど

小学生から中学生までを受け入れていると

カウンセラーから聞いていた

 

それは娘達にも伝えているが

全く興味は示さなかった

 

どこのフリースクールも大体授業はない

勉強したければ自分で自由に取り組み

分からなければ誰かに教えてもらう

友達だったり先生にだったり

 

特別カリキュラムはないようで

何もしなくてもOKな場所

 

漫画、ゲーム、スマホで遊んでいてもOK

危険物さえ持ち込まなければ

何でもOKなような印象

 

スリースクールに通うと決めたからといって

毎日出席しなくちゃいけないわけでもない

 

本当に自由で何の縛りはない

そんな場所が『フリースクール

 

にもかかわらず

そんな自由と言われる場所なのに

娘達から見ると

自由で楽な学校と言うよりは

子ども用の精神疾患者のリハビリ施設

 

そんなイメージがあるようで

興味など1ミリもわかないらしい

 

この言葉 面白いほど納得した

 

だから未だにフリースクールを訪ねたことはない

行きたいと熱望してからでも遅くはない

よって私の中ではフリースクールへの興味はない

 

とは言え

幾度となく私の父はフリースクールを押してくる

 

自転車で登校するのが嫌なら

車で自分(私の父)が送迎してあげる

 

天気が悪くて行きたくないときは休めばいい

嫌になったらすぐ帰ってこればいい

いつでも迎えに行く

 

勉強なんてしなくていいから

好きな事やっていればいいから

好きな事で何かしら出会いがあるかもしれないから

もしかしたら友達が出来るかもしれないから

楽しくなるかもしれないから

行ってみてはどうだ

 

人と繋がりを持つために

何か刺激を受けるかもしれないから

とりあえず行動してみてはどうだ

 

フリースクールでも保健室登校でも

別室登校でもなんでもいいから

とりあえず今の状況を変えよう

 

そんな風にTVでフリースクールの話題に触れる度

幾度となく進められてきた

 

何か見つかるかもしれない

何かきっかけがあるかもしれない

 

そんな曖昧な大人の勝手な期待を膨らませて

私の父は娘達に直接話せないため

親の私にガンガン押してくる

 

でもそれって学校へ行っていない今がダメだ

と言われているようなもの

 

今の現状がダメだと否定されているように感じる

 

フリースクールへ通えば何かが変わり自体は好転する

と勝手に期待してる

 

でもそれはどれも不確かな現実

娘達は学校へ行かないことを後悔はしていない

行かないことに罪悪感も感じていない

学校へ行くことが必要だとも感じていない

 

きっかけ、出会い、繋がり

それらは自分で望んで動き出さなきゃ手に入れられない

 

大人の私達はそんなこと知っているはずなのに

子どもならそれらが自然と簡単に手に入ると思い込んでる

 

出会いの場、学びの場、きっかけを生み出してくる場

大人がこの環境をいくら整えて用意したところで

本人がそれを欲しいと望み手を伸ばさなきゃ

何も手に入らない

 

父が勝手に必要だと思い込んでいること

娘達が子どもだから何も知らないと

何も分からないと決めつけ

自分の経験というものさしだけで

必要なものを選択し、与えようとしていること

押しつけようとしていること

 

私も娘達も もう知っている

それらはエゴだって知っている

分かっている

だから余計反発したくなる

 

娘達は社会との繋がり、人との繋がり

きっかけが欲しいんじゃない

自分の居場所が欲しいんだ

 

私はいつも思う

子どもたちの居場所って

そもそも学校である必要があるんだろうか?

 

そして自分の居場所くらい

自分で決めたいとは

思わないんだろうか・・・

 

本当なら家が子どもの安全地帯になり居場所になる

それがちゃんと機能していないため

他者に依存し、他の場所に依存し

自分の居場所を無理矢理作りだそうとし探す

 

親は知らず知らず

勝手に子どもの居場所を他に用意し

ここを居場所にしなさいって指示しているみたい

 

フリースクールへ』っていう言葉は

”家にも学校にもあなたの居場所はないよ”

”ここにはあなたの居場所はないよ”って

宣告されているようなもの

 

そして

フリースクールになら居場所があるんじゃないかって

打診されているようなもの

 

少なくとも娘達は『フリースクールはどうだ?』

と言われる度に

『自分達の居場所にはここにはない』

って言われているような気分になるらしい

 

よかれと思っての提案が

変に子どもを追い詰めている

そんな時もあった

 

そうと分かっていても

知っていても

言葉にしてしまう時がある

 

現に

フリースクールにでもなんでもいいから行ってくれ』

と言いそうになる時が何度かあった

 

まぁ親としては

家にばかり引きこもっているよりは

小さな社会という集団の中で

なんとか上手くやってくれることを

願ってしまう

 

口に出さなくても心の中ではこの言葉であふれかえっている

そんな時期もあったさ

 

でもこれって単純に私が面倒なだけで

誰かに娘達の面倒を引きけてくれって

責任を押しつけようとしているようなものだって

分かったら、それに気付いたら

 

やっぱりなんだか違う

それはおかしいって気付いた

 

子どもが自ら望んで自分の現状を変えたくて

自分の意志でフリースクールを選んだのなら問題はない

素晴らしい選択だねって心から応援する

 

この状態ならフリースクールへ行くことはとても有意義で

メリットにしかならない

 

自ら望んだ場所であれば

自分で自分の居場所も必ず見つけてくる

心配する必要もない

 

でもそれ以外の形で、決めたのなら

フリースクールに通うことにメリットは感じられない

 

なぜなら今までの学校となんら変わらないから

受け身で生きる方法をやめなければ

何も変わらないし、何も手にしない

 

単に場所が変わっただけで

意思や思考が変わっていないのなら

残念ながらまた同じことを繰り返す

 

子ども自身が自分の分かる範囲内で

精一杯考え、今の自分に従えばものごとは好転する

私はそう考えている

 

それが今の正しい選択

その結果思わぬ結果が舞い込んで来ても

自分の選択の結果

自分の責任だって理解出来る

そしたらそこから学びに変わる

 

我が家の娘達の場合は・・・

現在、自分達の居場所を家の中に見つけてしまった

 

まだ家に居て私の隣にいたいらしい

家に居て自分の出来る事で生活し

ゆっくりと成長したいらしい

 

今まで慌ただしく無理矢理走らされ背中を押されきた

この感覚が嫌いなようで

自分のペースで自分に合ったやり方で生きたいと望んでいる

 

その代償が数年後目の前に大きな壁として現れることは

十分承知している

 

まぁ本当に大きな壁として出現するかは定かではないが・・・

それを想定し理解した上で今を過ごしている

 

娘達の方が随分肝っ玉が据わっている

私も負けていられない

 

だからもし大きな壁が出てきたら

一生懸命考えてその都度少しずつ壊していくしかない

出来る事で乗り越えるしかない

 

みんなと違う生き方をし

自分の意思に従った生き方をするということは

常に自分で責任を持つということ

 

自由と隣り合わせな世界で生きることは

良いことも悪いことも両方ある

 

それでも自分の決めたことなら

自分で責任は持てるはず

というより持つしかない

 

出来ないものにこだわらず

出来るものを突き詰め

それを使って未来を切り開く

その方法でコツコツ生きていくしかない

 

娘達の居場所は自宅にあり私の隣にある

娘達がここを自分の居場所だと決めているのだから

親でも大人でも口を挟むことは出来ない

 

まぁそんな考えでいるため

我が家には今のところ

フリースクールを利用する理由が見つからない

 

親の私が腹をくくれば

娘達が決めた居場所なんてどこだっていいんだ

不登校は親の責任 そんなことどうでもいい で、次どうする?が重要!

★『不登校は大半は親の責任』この言葉嫌いじゃない

私はTVは見ない

この言葉はネットの記事で拝見した

 

その言葉に対して

私は何のためらいもなく

『うん、その通り!』

って心底共感した

 

私達親子の中ではこの言葉は

”正しい”と認識している

 

まぁ実際私のような母親はゴロゴロいるだろう

同じように過指示・過干渉・過保護で子どもを育て

人からがんばっていると

認められたく無意識に母親をやっている親が

ゴロゴロいる

 

断定はできないが

あくまで推測・・・

 

ただ本人にとってこれは潜在意識レベルの無意識

 

だから

自分がそんなことを考えているとも

求めているとも分からない

そして

気付いていない

 

たとえ 気付いていたとしても

素直にそれは受け入れない

 

なぜなら

なんとなく格好悪い

そしてみっともない

 

そんな風に感じる

肝っ玉の小さい母親であった私

 

そんな私のような母親が多い

気がする

 

私は同じ不登校児を抱える親と会ったことはない

ネットの記事や情報に触れるたびに

自分と似ているケースの親子が多く

自分と同じような子どもへの感情や対応をしている

親の姿に触れると

みんなどこも同じだなって感じる

 

ただ

どんな環境でどんな親子関係で繋がっているのか

本当のところは分からない

 

私が知り得る情報はたった一つのピースに過ぎず

全て同じと言う言葉でくくるのは

他の不登校児の親子に失礼だ

 

だからみんなが同じだとは思っていない

私もみんなと同じではない

似ているな 程度

 

その上であくまで

我が家に関して言えば

私に関して言えばの話

 

 

娘達が不登校になったのは

親の潜在意識の問題で

娘達に責任など一切ない

 

学校側にだって一切責任なんてない

まぁ本当のところ

親の私にも主人にも責任なんてない

 

じゃ~どこに責任があるのかと言えば

世の中の常識

これ一択

 

なぜなら

無意識に学校へは行くもんだと思い込まされている

学校へ行って良い大学へ行って良い会社に就職すれば幸せになると

思い込まされている

 

私より上の世代 さらにその上の世代は

その道のりしか知らない

 

その道のりを歩めなかったから

大変、苦労、幸せじゃなかった

と思い込んでる

 

だから学校へ行かなければ

その道のりすら見つけられない

 

そして大変、苦労、幸せじゃない 

未来が待ってるって勘違いし

後世に幻想であるその道を進める

 

そうこれは私の両親

私の両親はそんな思い込みが強かった

 

でもね

私気付いちゃったんだよね

 

それがタダの思い込みで

クソみたいなくだらない思い込みで

そのクソみたいな思い込みのせいで

自分の頭を使わなくなっているということに

 

 

幸せになれない本当の理由は

自分の頭を使わないこと

これが幸せになれない本当の理由

 

学校へ行こうが行こまいが

幸せには直結しない

関係ない

 

考えることはとても疲れる

エネルギーを消耗する

大変な作業

 

そんなエネルギーをごっそり持っていかれる

”考えること”は脳にとっては邪魔な存在

 

だからみんなと一緒がいい

楽な方へと楽な方へと

脳は私を誘導する

 

もとい、誘導していた

 

みんなと一緒の方がなんだか安心できて

正しい生き方がそこにあるって思い込んでる

 

そして一緒じゃないと

”不安”という見えないものを発動させる

 

これが脳の自己防衛機能

これが発動するとこの機能の存在を知らなければ

あらがえない

 

そうやって脳がエネルギーを消耗させないように

”不安”を発動させ

思考することをストップさせる

 

脳にとって好都合だが

私にとっては不都合な現実

 

今はこの脳の仕組みを知っている人は大勢いる

向上心、知的好奇心に溢れている人達は

だいたい知っている

 

賢い人達があらゆる方法で教えてくれている

これを教授しないなんて勿体ない

 

脳科学という学問があり脳の仕組みは解明され証明され

今では子どもにでも分かるように説明されている

 

ただ情報はあるのに受け取らない人がいる

その答えは簡単

 

自分の頭で考えることを今までにしてきていない

 

だからこの作業が面倒に感じ

脳がこの情報を受けとらない

 

今まで自分の頭で考える作業をしてきていない人にとっては

とても難しい作業だと感じる

思い込まされている

 

だからいろんないいわけを持ち出し

考えない理由を考え、楽な方を選ぶ

そして

今までと変わらない生き方を選択する

 

まぁこれも自分で考えて出した答えなら正しい選択

その先を全て自分で背負っていけば

なんら問題ない

 

他人に責任をなすりつけなければ

自分で出した答えは全て正しい選択になる

 

親の意思に

周りの意思に

ありふれた常識に従う方が楽だから

と 自分の頭をフル稼働しないのは間違ってる

 

まぁそういう人は相変わらずの人生を歩めばいい

それがその人の選んだ道なんだから

それが正しい道

 

向かう先、目的地はみんな違う

同じにはならない

 

みんなどこへ向かってもいい

どんなスピードで進んでもかまわない

 

親子だから

家族だから

夫婦だから

という理由で同じ目的地

同じ速度を設定する必要はない

 

もうそんな同じを強要しなくても

自由に生きていける時代になったんだ

 

少なくとも

我が家には”同じ”は存在しない

そして存在させたくない

 

みんな自由でいい

 

その代わり

自由を手にした代わりに責任は全て自分で取る

これさえ肝に銘じれば

なんてことはない

 

責任って言おうと

凄く重くて辛くて苦しい

怖いもののように感じるけど

それは違う

 

責任とは”考えること”

 

何か問題が起きればその都度その都度

考えればいいだけのこと

難しいことじゃない

 

問題を解決しているうちに

だんだんパワーも付いてくる

成長する

 

だから子どもには小さな頃から

小さな責任を少しずつ背負わせる

これで少しずつ耐性がつき成長する

 

脳の仕組みを受け入れるだけで

思い込み、勘違いに気づける

簡単なこと

 

自分の頭で考えないから

これが脳の罠だって理解出来ない

 

まぁそんなもんだ

大したことじゃない

 

そんな私の頭で考えた

不登校の本当の原因は”脳”

 

原因は脳にあるが責任は脳にはない

というか脳に責任を取らせるなんて無理だよね

 

う゛~なんかよく分からなくなってきた

 

要するに

原因は”脳”にあるんだけど

脳は責任なんて取れなくて

そんな責任を押しつけても無意味な話

 

というより責任なんてどうでもよくない?

 

娘達が不登校になった原因は

間違いなく親の私にある

 

違う・・・親の私の”脳”にある

責任は私の脳にある

 

ただ原因が私の脳にあるからと言っても

どう責任をとるのかって話

 

今 出来る事は

原因は私にあるって分かっているんだから

同じ間違いをしなきゃいいわけで

今まで頭をフル稼働してこなかったのだから

これからどうするかをフル稼働させて考えればいいだけのこと

 

これをいつまでも他人に責任転嫁してると

物事は何も変わらなくて現状は悪化するだけ

 

自分の脳の過ちを認め

受け止めるだけで物事は好転する

そして今好転している最中!

 

結構簡単なこと

 

複雑に考えて思考がストップする時は

問題を把握出来ていないとき

そんな時は細分化

(これ方法、仕事の時によく使うよね)

 

不登校の大半は親の責任』って言葉にイラっとしたら

単純に図星(*゚Д゚)

 

でも私はこの言葉にイラつかない

責任が自分にあるって認めていなければ

この言葉に怒り奮闘していた

(きっとね)

 

でも実際は共感の気持ちの方が大きい

 

ということは

ちゃんと自分の頭で考え

自分自身を受け止めることが出来ている

 

誰も当事者の気持ちなんて分からない

子どもの気持ちも

親の気持ちも

みんな他人の気持ちなんて分からない

 

誰かがよしよしと慰めてくれて

不安な気持ちに寄り添ってくれても

本当の問題は解決しない

 

原因を知ることは必要だけど

責任の所在地を知ること

見つけることは

探し出すことは

大して重要じゃない

 

誰に責任があっても

誰かが責任を負ってくれたとしても

本当の問題は解決しない

 

必要なのは現状を受け止め 次どうするかを

自分の頭をフル稼働させて考えること

これだけ

 

これで考えて出した答えを

出来る事からコツコツと取り組む

 

この作業に向き合わなきゃ何も変わらない

 

出来ないことはやらない

今の自分に出来ることをコツコツと取り組む

それがいつか自分の自信になり自分の強みになる

 

周りはその姿を優しく見守ってあげればいい

 

急かさず 優しく見守ることが

私に出来る唯一の親としての役割

 

そう思って

のんびりな娘達を見守っている

 

ただ元々過干渉だった私には

この見守ることが

すっごく難しい

 

簡単なようで簡単じゃない

でもやらないわけにはいかないんだ・・・

 

私が出来る事は

娘達の将来の責任を負うことではない

娘達を信じて見守ること

 

それが私が親になった理由なんだ

親になったからこそ学べることなんだ

 

と 自分に言い聞かせる毎日を送っております<(_ _)>

『不登校』『義務教育』を忘れ 次のステージへ👟

★『不登校』という言葉が薄れてきた

 

娘達が不登校児になって1年と9ヶ月

もう今では

不登校』という言葉に何の感情も抱かなくなった

 

ネットの記事で不登校のタイトルを見かけても

なんだか他人事

それもそのはず

 

学用品、教科書、学校からの配布物も家庭訪問もない

な~んにもない

 

たまに長女の担任が手紙を届けてくれるが

それは単なる手紙 紙切れ

長女も軽く目を通す程度で

なんの感情もない

話題にすらならない

 

あまりにも学校とかけ離れた生活のため

我が子が義務教育期間中であるということを

忘れる

 

でもこれが普通で

今更学校への生活を想像することも出来ないし

想像もしたくない

 

心の中ではもう既に

義務教育を卒業したかのような気になっている

勘違いしている

 

学校から離れて分かったこと

学校自体から離れると

不安を感じない

娘達だけ・・・なんていう感覚がなくなる

 

あるのは

娘達は私の目の前で元気に生きてる

この現実だけがある

 

たぶんこれは”慣れ”って奴

良くも悪くも ”慣れ”です

 

みんなの中にいるから

みんなと違う娘達に違和感を感じる

 

みんなと一緒にいるのに

みんなと同じじゃないから

みんなと違う娘達に不安を感じる

 

”みんなと同じ”って言葉がどれだけ無価値で

どれだけ邪魔な言葉なのかを知っていても

みんなの中に入ると

自分の信じるものが

もろもろと崩れ落ちる感覚に襲われる

 

でもこれは脳の仕組み、脳の反応

生きるための生存本能

 

脳が勝手に作り出した感覚で

真実とは違う

 

だから 単なる思い込みで勘違い

 

それに気が付いたら

問題はきれいさっぱりなくなった

 

自分の気持ちを揺さぶる世界から抜け出せば

どうってことはない

 

比較する対象がなくなれば

どうってことはない

ただそれだけ

 

自分を取り巻く環境を

自分の望む世界を作ることは

そんなに難しくなかった

 

元々嫌なことから目を背ける癖があった

これがまさしく今活かされている

 

自分さえそれが正しい選択だと分かっていれば

間違いじゃない

全て正しい選択になる

 

見なくていいものは見なければいい

要らない物はどんどん手放し

身軽になって

好きなように生きればいい

 

ただ

それがどんなに自分に合っていて

それがどんなに必要なことなのかは

自分にしか分からない

 

だから

他者には理解を求めない

 

これを体験するために

私は今 生きている

 

 

不登校の何がいけなくて

何が問題で

何が不安にさせるのか

 

その答えが分かった今

不登校』という言葉自体

バカバカしい

 

これに振り回されるのは

時間の無駄

 

とまぁ~

なんでも分かったかのような

なんでも知っているかのような

偉そうな私になっているのが

ここ最近面白い😏

 

ある意味滑稽に近い

でもそれでいい🎶

不安で落ち込んでいる母親より

うんとマシだ

 

そして

娘達がこの先どうやって成長していくのか

これが楽しみで仕方ない

 

今まで体験したことのない世界

どんな風に転ぶか、楽しみで仕方ない

 

どんな風に親の私達に関わり

親の私にどんな問題が降りかかってくるのか

 

本当に問題が起きるのか

本当に困った事になるのか

知りたい

体験したい

 

ほらね、やっぱりね

って思うかも知れないけど

それでも体験しないと分からない

 

いつだって体験したくてうずうずしている

 

本当に学校へ行かないことが

学歴がないことが

将来困るのか

 

以前は少なからず

困った事にはならないよう

違う道を探ろうと必死だった

 

でもよくよく考えれば

娘達の将来なんて私の知ったことではない

 

何が楽しくて何が幸せなのかは娘達にしか分からない

そう考えたら

私が必死になる理由なんて

これっぽちもない

 

そんな風に考えたら

娘達のことを考えるだけ無駄

 

自分の将来を考える時間を大切にした方が

有意義だ

 

 

一般的な親子が進む道と我が家が進む道

見えてくる世界はどんな風に違うのか

体験できるまたとないチャンス

 

みんなと違う将来

私と娘達も違う

そんなこと当たり前なのに

なんだか混同していた時期があった

 

でも今は自分の生活

自分の将来を考えてる

 

世の中楽しんだもの勝ち

まさにこの言葉通り

 

どうにもならない娘達の将来を考えるより

どうにかなる自分の将来を私は考える

 

こんな風に考えられるのも

ちゃんと自分の頭で考えたから

 

自分で考え

自分で考えて見つけた答えだから

不安を感じない

 

要するに考えることを常に他人任せにして

現実と向き合わず生きているから不安がつきまとっていた

 

このことを知るために

娘達が不登校になり私は不登校児の親になった

 

そうやって考えたら

全てに意味がある

 

考えることの必要性を教えてくれた貴重な体験

そして私を救ってくれた貴重な出来事

 

自分で考えないことがどれだけ愚かなことなのか

損なことなのかを学んだ1年と9ヶ月

 

そして

それが自分を苦しめていることの

これが本当の原因だって分かったら

今までの過去がくだらなく感じた

 

そう だから今は

アホな過去の自分を理解し

今までとは違う角度で物事を見る

 

それが私自身の成長

 

私も娘達も

まだまだこれから

 

娘達はもちろんだが

40代の母親の私だっていくらでも変われるし

いくらでも成長する

自分で自分のことを諦めなければ

 

生きている以上

成長するしかない

現状維持は衰退

前進あるのみ!

 

それくらい

ノープロブレムな現実になってきた

 

正直我ながら この思考

ご立派!素敵!

娘達にも主人にも感心される🤩

 

たぶん不登校児の親には私みたいな奴

なかなかいないんだろうな

 

いたら会ってみたいよ~

一緒に楽しい未来の話がしたい

単純に楽しそう!面白そう!🤩

 

思考の仕方で全てが変わる

今起きている現実も

これから起きる現実も

全て自分の思考次第で変わる

 

これが面白すぎてたまんない

たぶんこれはスピリチュアルと言われる世界

思考とか言っている時点で目に見えない世界

 

この感覚に魅力を感じ

今はこの世界にどっぷり浸かっている

 

思考の使いかた

脳の使いかたを理解し

自分で自分のことをコントロールする

 

そして

自分で自分の未来を作れるってなんとなく分かってきた

そしてそのことを思いっきり信じてる

 

感覚的に今目の前にある現実が

自分の理想とする形になってきているから

腑に落ちた感じで

だんだんと分かってきた

 

学校で学んできたことが全てではなかった

今まで学んできたことが正しかったって

感じることが出来なかった

そして不満ばかり

 

なら今までとは違う方法を試すしかない

 

目に入るものばかりに左右され

目の前にあるものばかりを信じていた

でもそれが違っていた

 

それらが正しいわけじゃないって知った

だから次は

目に見えない感覚的なものを信じる

意識する

 

今までのやり方が上手くいかないんだから

今までのやり方とは違うやり方でチャレンジする

 

これを今度はライフスタイルに

取り入れることにした

 

何故か最近時間が足りなくて

自分の中でアンフェアな感覚がうずうずしてる

 

なんだか自分ばかりという感覚が溢れてくる

 

そうそれは

娘達への不満

 

私だって一人の人間で

ようやく自分自身に目覚めたところ

 

その今この時に娘達の世話ばかりする母親でいるのは

もったいない

というより母親の存在って要らない

害でしかない

 

自分の経験上そう感じるから

娘達とも境界線を引きたい

 

そんな風に主人に愚痴る日々が少しずつ増えてきた

 

何かを見直す時期

何を手放せと言われている・・・

 

そう

そろそろ娘達を手放す時かもしれない

コロナの後遺症?不登校児の長女の味覚変化?

長女の味覚変化でライフスタイルが少し変化した

コロナの後遺症かな?

長女の味覚が変わったまま未だに戻らない

 

7月に家族でコロナに罹り

その後遺症のせいか

長女がお肉類をまったく受け付けなくなった

要するに食べられないと言うこと

 

コロナの後遺症に味覚障害という言葉があることは知っていた

 

最初は一過性のもので

体調が元に戻れば味覚も戻ると思っていた

 

だからあまり気にもしていなかった

それが

あれから3ヶ月が経った今もなお

味覚は戻っていない

 

長女の口の中にお肉を放り込むと

なんとお肉がヘドロに変化する?!

 

当初 体調不良で口の中がまずくなっているだけ

しっかりと歯磨きをして

念入りに口をゆすいで

きれいさっぱりとさせたら

美味しく食べられるだろう と

安易に考え

安易に対応していた

 

だけど

何も変わらない

 

何度か調理方法、味付けなどを工夫して

お肉にトライしたが

ずっとヘドロのまま・・・

 

良くなる兆しはなかった

 

お肉を口に入れると

ヘドロのような匂い・味がするらしく

すぐに吐き出す

クソ まずいらしい

 

鶏肉、豚肉、牛肉これら全般

そして冷たい状態でも温かい状態でも

感じ方は同じ

 

卵は冷たい状態であれば問題なく食べられるが

温かい状態だと卵もヘドロに変わる

 

だから目玉焼き、卵焼き、スクランブルも

作って冷蔵庫で冷やし冷ましてから食べる

こうしないと食べられない

 

冷やすことで匂いが軽減されるのか

なんとか食べることが出来るよう

 

味覚が変化してからいろんな食べ物を

いろんな食べ方でトライした

 

とりあえず原因が何かは分からないが

分かっていることは

お肉だけはどんな状態でも受け付けられないということ

 

いささか不思議なことが長女の体に起きてしまった

 

たまたまコロナがきっかけになっただけ

 

思春期の体には何が起きても不思議じゃない

今まで感じなかったことが感じるようになり

違和感を感じたり

感覚がやたらと敏感になったり

 

とまぁいろいろ変化が起きても不思議じゃない

単純に思春期の一環で

そんなものだと

簡単に割り切っている

 

とりあえず野菜と魚介類は温度に関係なく

美味しく食べられるようなので

今は野菜と魚介類がメインの食生活

 

傍からみれば肉が食べられないことが

不憫に感じられるかもしれないが

本人曰く

『別に美味しく感じないのだから食べなくていい』

と言っている

 

なんなら

『ヘドロなんて食べたくないわ』

と笑っている

 

まぁそうだわな

としか言いようがなく

我が家では特別問題にはならず

その状態を受け入れ今に至る

 

美味しいと感じられるものが食べられないわけではないので

苦痛は感じないよう

単純に食の好みが変わっただけ

長女的にはその程度の認識

 

私的にはお肉より魚介類が食べられることの方が

断然うれしい!

なんなら好都合な話

 

日本のお肉、スーパーに売っているお肉はそんなに質が良くない

この本にその理由が記載されている

興味のある方はどうぞ!

ただちょっと世の中に不信感を抱くかもしれない

捉え方次第では

 

少なくとも

私と娘達はそんな感情を抱いた時期があった

 

今ではいろんな情報を得ながら

自分達の出来る範囲

自分達で考え出した答えだけを実行している

 

だからあくまで食の実態の教科書に過ぎず

全ては実行できていないのが現実

そしてそれでOKと考えている

 

で、話は戻って

 

タンパク質は体にとって重要

お肉自体は本当なら大事なタンパク源で

体に取っては大切な栄養素

 

それは事実なんだけど

問題はそのお肉の中身

 

つまりそのお肉の元の動物の食生活が鍵になってくる

その食される動物の飼育環境に問題があるため

お肉の質が私が知っていた現実とは違っていた

 

正直この本の情報を信頼している私は

食べるべきものではないと考えている

 

また

遺伝子組み換え食品も元々避けていたので

この観点からも

お肉は食べさせたくない

というか食べなくていい

 

まぁ読んだら分かるけど

母親としては避けられるなら避けたいと思ってしまう

内容がいっぱい書かれている

 

とは言え

育ち盛りの娘達の体が欲するならと食卓に出していた

 

食べたいものを我慢させ

食べたくないものを体に良いからと言って

食べさせることはしてこなかった

 

長女は元々 魚介類が好きじゃない

だから

日常的に食することは難しかった

 

骨がある魚は苦手

貝やエビ、イカも嫌い

 

そこへお肉を排除したら食べるものが野菜と果物

さすがにそれは現実的に無理

さすがに可哀想・・・

 

だから時期が来るまで待っていた

 

体が欲した時

必要になった時

その時考えれば良い

その時がきたら食生活を

シフトチェンジすればいいと考えていた

 

自分で気付いて自分で必要なことなんだと理解しなければ

あらゆることが継続できない

もうこれが身にしみてよく分かってる

 

無理維持させることは時間の無駄でもある

そして体力的にも無駄

 

だいたいそのサインは

体に不調をきたした時に来る

このときが見直す時

考える時

 

そして今長女が自分の体を見直し

どうすれば快適に食事を楽しめるかを考える時

 

お肉を食べることが本当に必要かどうか

ヘドロに感じるお肉をどう調理したら美味しく食べられるようになるのか

長女自身が考えた

 

そしてその考えた末出した結論が

お肉を食べることをやめた

 

コロナを機に長女は自分から肉類の摂取を放棄した

 

これはこれで本当に私的には好都合な話

無理矢理ではなく

長女の体、長女の意思で変わってくれた

 

私はなんの労力も使っていない

しめしめって感じ🤭

 

家族みんなが肉についての知識を得ているため

なんの違和感もなく

自然な形で長女の食スタイルは変わり

家族みんながそれを受け入れた

 

まぁそもそも肉断ちしている親がそばにいて

肉断ちしても美味しく食べられるものが

普通に目の前にあるのを知っているため

あんまり悲観せずともすんなり移行できたんだろう

 

普通の食生活をしていたら

お肉が食べられない?

じゃ~これから何食べればいいの~?

って頭の中が真っ白になるんだろうけど・・・

 

元々普通の食生活じゃないから

あんまり特別感もなかった

 

既にグルテンカゼインフリーの食生活で

制限のある食生活をしているため

概ね耐性が出来ている

 

食べられる食材を使って美味しく食べられる料理を作ればいい

ただそれだけのこと

習慣は強い!

 

ちなみに私はもう一年くらい肉断ちをしている

私は食べられないわけではなく

食べることにメリットを感じないから食べない

 

お肉の質の問題もあるが

それに加えて体への負担を大きく感じたので

食べることをやめた

 

食べると体が重くなり、消化に時間がかかることが

自分の体で分かる

そのため

お肉を食べる意味が見いだせない

 

不快感と時間のロスにストレスを感じ

肉絶ちした

 

私の場合はたぶん極端なケース

これを人に話すと怪訝な顔をされる

 

で、何食べるの?みたいな

 

人の体ってそんなに沢山のものを食べなくても

いろんな種類のものを食べなくても

ちゃんと機能する

体はちゃんと維持できる

 

私は体に必要なものを必要な分だけ食べる

これが快適だと気付くのに

40年かかった

 

だから長女の体が今肉を要らないと判断しているなら

それでいい

それがベスト

 

きっと常識とは違う

 

ちまたでは毎日3食しっかりといろんな物を食べましょうと言う

学校でもそう教えている

 

食べ物を取り込む体も

取り込む体の生活スタイル

活動スタイルもまちまちなのに

みんな同じように教育される

 

体に必要なものが本当はどれくらいなのか

知っている人は一体どれくらいいるんだろう?

 

自分の体に必要な分

必要な栄養素

または自分の体が欲している食べ物

 

これらとちゃんと向き合って食べ物を摂取している人は

どれくらいいるんだろう?

 

みんな考える時間も与えられず

考える機会も与えられず

 

少なくとも私は今の食生活に出会うまでは

考えたことなんてなかった

 

だからまだ中学生の長女が

自分の体と向き合うこの時間が持てたことが

本当にラッキー

そう感じる

 

間違っていようが正しかろうが

そこはあまり重要じゃない

 

とりあえず自分で考える

この行為に意味がある

 

本人しか分からない

長女にしか分からない

 

とりあえず学校へ行ってなくて良かった

 

学校の給食 という問題にぶち当たらない

悩まなくて済むのが

本当にありがたい

 

みんなと同じでなければいけない

この暗黙のルールの中で生活するには

 

自分の考えを持ったり

自分の考えで行動したり

自分に素直に向き合う生き方を選んだ長女には

学校は不向きとしか言いようがない

 

それに毎日手作り弁当っていうのも面倒くさいし

やっぱり我が子は不登校向き

 

家でご飯が食べられる

自分の体を大切にした生活を送れる

家が一番我が家には合っている

 

この当たり前のことを感じられることが幸せ!

 

というわけで

7月のコロナをきっかけに

お肉がヘドロに感じるようになってしまった長女は

今がんばって自分のご飯を毎日作っている

 

長女は実家で暮らしながら

自分の食べる物を自分で考えて用意して食べている

 

と言ってもかなり手抜き料理・・・

一人暮らしをし始めた学生さんみたいな食事

 

それでも長女はその状態を不満には思わず

今のこの生活を自分で選んでいる

 

おかげで私の家事の負担が減った

 

というわけにはいかなかった・・・

まだ次女がいた

夏休み明けの不登校 不安に感じたら自分の頭でよく考えて!

久しぶりのブログ

 

最近モヤモヤする

頭の中で何かぐちゃぐちゃしてる

適度に吐き出さないと・・・

自分のことが分からなくなる

 

というわけで吐き出します!

 

前回のブログ記事から一月が経った

記事を更新していないにもかかわらず

記事を読んでくれる人がいる

 

不思議だ!?

そして同時に

とってもうれしくて 感動もの😭

 

毎日アクセス解析を覗いては

”見てくれてありがとう!”とつぶやく

 

毎日誰かと繋がっているような気がして

温かい気分になる

 

勝手な思い込みだが

私にとっては都合のいい思い込み

これで十分幸せを感じる

 

それでもちょっと欲が出て

少しは誰かの役に立てているのかなと

うぬぼれてもいる自分もいる😏

 

正直 ただただうれしい現実がそこにある🧡

 

 

アクセス傾向の情報からすると

不登校の原因”に関する記事にアクセスがある

 

”夏休み明けの不登校

たぶんこれに関連して

私の不登校に関する記事が閲覧されていると推測

 

やっぱり不登校か・・・

 

自分で不登校記事を書いておきながら言うことではないんだが

不登校って最初の小さな入り口に過ぎなくて

不登校自体は別に大した問題じゃないんだよね

 

問題なのはその奥そこにある

子どもを取り巻く環境

 

そこを見直さないと変えていかないと

子ども達は救えない

 

どうにもこうにも変わらない

いくらカウンセリングして話を聞いても

何も変わらない

 

そしてそれを変えられるのは子どもではなく

唯一 親なんだ

子どもを育てる 

子どもの一番近くにいる親・大人なんだよね

 

だけど 

その大人達が自分に原因があるって気付かないから

認めないからタチが悪い・・・

 

そして変わるのは親

だけど

子どもへの接し方とか見方とか

そんな生ぬるいことでは変わらない

 

根本を変えないと

すぐに元に戻ってしまう

 

つまり 親の潜在意識

ここを見直さないと

上手くいかない

 

親の潜在意識を正しく整えてあげることが大事

ここが整っていないから

親も子も 苦しくなる

そして自体は悪化するか何も変わらないか

 

私は不登校問題について

こんな風に考えている

 

正しいとか間違っているとか

そんなことどうでもいい

私は潜在意識がすべてだと知っている

 

だから新聞やネットの記事で不登校情報を目にすると

そんなアプローチでは

何も変わらない

 

と少々残念な気持ちになる

 

9月から新学期

不登校問題が一番スポットライトを浴びる時期

 

世の中には

もしかして我が子が・・・なんて考えて

心配する親御さんが沢山いる

 

今現在不登校の子もいれば

不登校になりかけている子もいる

 

子どもの数だけ不安があり

常に不安と隣り合わせで親は生きている

以前の私はそうだった

でも今は全く真逆の考え

 

 

私は不登校児の娘達を不憫には思っていない

どちらかと言えば

不登校児になれたことをすごいとさえ思い

尊敬している

 

確かに最初は学校へ行けないくらいエネルギーを奪ってしまっていたこと

母親としての私の言動や接し方

よかれと思ってとっていた行動が間違っていたことで

罪悪感は感じていた

 

そして

エネルギーバンパイアという言葉がぴったりな私の両親の元で

娘達を育てしてしまったことにも罪悪感を感じずには

いられなかった

 

ただ学校自体に行けないということに対しては

さほど罪悪感は生まれなかった

 

それは心底 私自身が学校が嫌いだからだろう

 

比較、競争、いじめ、劣等感

信頼できるはずの大人が意図も簡単に裏切ってくる場所

そして未熟な子どもの集まりで互いに傷つけ合ってしまう場所

 

要らぬ不安をガンガン押しつけ

要らぬインプットばかりを強要する場所

 

アウトプットの仕方を知らない大人の集団

それが学校で

その中で一体何が学べるのか

考えもしずに送り出していた

自分に後悔する

 

まぁそんな考えだから

学校なんて行かなくていいし

行く必要はない

 

これを堂々と娘達に伝えられることは

私にとってはありがたいこと

 

なぜなら 娘達に嘘をつかなくていい

 

学校が良い場所ではない

害を与える場所だと知り感じながらも

娘達に嘘をついて学校へ送り出すことの方が辛い

 

かなり行きすぎた考えだが

きっと私の内側に学校への反発心があるため

そのような現実が目の前に現れる

 

ただ娘達からこぼれる学校のイメージも

私とそう変わらない

 

親子だから似ているのか

時が経っても学校自体がアップグレードしていないのか

そのどちらか・・・

 

ただ不登校になって分かったことで

悔やまれることは

 

娘達の育て方が悪かったこと

そして間違っていたこと

これだけだ

 

私は知らず知らずのうちに娘達の心を

いとも簡単に傷つけていた

この事実を受け止めることが辛かった

でも現実 そうなんだから仕方ない

深く反省しております💦

 

それには

私は私なりの理由があり脳の仕業

この脳の仕組みを認識していなかったことが原因

 

とまぁ~脳のせいにして過去のことと割り切っている

そして間違いが分かればあとは軌道修正するのみ

ただそれだけ

これが分かればなんてことはない

 

というわけで

過去のことは

ちゃんと娘達に謝りました

 

これからはお互いに親と子というよりは

望む現実に向かって一緒に歩める同士として

生きていこうと話し合った

 

大人だから子どもだから

親だから子だから

といった枠は必要ない

 

個人をちゃんと認め尊重できる生き方をして行こう

となった

 

今までそれができていなく

それが必要なことだとも知らなかった

 

そんな尊重という言葉が親子のなかに存在しなかったため

いろんな不具合が出ていた

 

家族であっても親子であっても

境界線を引くことはとても大切

 

私は

中学生と小学生の娘達にいつも自分の考えを共有している

そして娘達の考えも共有させてもらっている

 

互いに価値観を共有することは

個々を認めるために大切

現在地を把握するためにも役立つ

 

よって今は以前にも増して

娘達が不登校であることに

ケロッとしている

 

何か問題でも?

そんな感じ

 

っていうかあまり不登校でとやかく言われることはない

言ってくる人は決まって身内だ

 

本当の赤の他人は『へぇ~そうなんだ』で終わる

多少興味は持つかも知れないが

それは一時的

 

人は自分が一番だから他人なんてどうでもいい

 

 

現実不登校の原因が私の育て方の間違い

ただ そこを咎めても仕方ないので

間違っていたものは改善するしかない

それだけのこと

 

過去をむやみに正当化しても意味がない

仕方ないの言葉で片付けて

そのままでも意味がない

 

やるべきことは

間違いを認め改善し

次どうするかを考える

これだけのこと

 

そして

行動しないことには現実は変わらない

 

変えたくないのであれば現状維持でいい

ただ現状維持はその場所にとどまっているように見えるが

実際は衰退していくのみ

これは変えられない

 

なら進むしかない!

 

 

不登校になるまで自分自身の育ちが悪かったなんてことも

知らなかった

というより考えなかった

 

自分が悪いと思い込んでいた

でも本当は

私が悪いんじゃなくて

私を育てた環境が悪い

 

私を育てた親が未熟すぎて

私の育て方を間違えた未熟な親が悪い

 

そんな風に考えたこともなかった

 

子どもは純粋で無垢だ

だから余計に気をつけなければいけない

 

簡単に子どもの心をズタズタと切り裂いてしまう

そしてその切り裂かれた心をずっと抱えて成長していく

 

また我が家が機能不全家族だったなんてことも気付かなかった

どこにでも居る普通の家族だと思っていた

 

みんなおんなじって言葉で

現実を直視していなかった結果が最悪な家族を作り出していた

 

すべて身の回りに起こることは偶然ではなく必然

ちゃんと理由があって起きている

 

私は娘達を通して多くを学んだ

ようやく学べた

強いて言うなら学べる時期に達した

 

不登校は学びのきっかけに過ぎなくて

でもそこから得られたものは計り知れない

 

物事の捉え方、見方で目の前に起こる現実は変わる

この捉え方、見方は潜在意識によって変わる

潜在意識がどんな過去と情報で埋め尽くされているかによって

目の前の現実が変わり

自分に引き寄せる現実も変わる

 

この潜在意識について深掘りすると

マジで面白い

 

脳には牽引の法則がある

 

自分の口から発する言葉を自分の耳で聞いて脳がそれを聞く

すると脳はこの人間はその言葉の現実が欲しいんだと認識

そしてその認識された現実を脳が引っ張ってくる

 

いわゆる引き寄せの法則

 

子どもを不安な目で見て

不安、不安と口にしていれば

必然と不安な現実が引き寄せられる

 

実際に不安を感じる時は

現実には起きていない

ありもしない出来事をあれやこれやと想像して

一人で不安になっていることが多い

 

自分でメンタルを下げ

些細な出来事が大きく膨れ上がり

恐怖で押し潰される

 

現実には形として成していないものなのに

自分の頭で想像し、口に出して発するから

目の前に嫌な出来事がわんさか溢れ

身動きが取れなくなり悪い事ばかりが起きていると捉える

 

自分で不安の種をまき散らし

不安な現実を回収しているだけ

不思議な光景

 

こういった脳の仕組みを学校が教えてくれれば

行く価値はあるし

生きる上で楽になる考え方だから

学んでおいでって

喜んで背中を押してあげられる

 

だけど

実際はそんなこと頼んでも教えてもらえないし

こんなこと学校の先生達は知らない

 

娘達の学校は管理教育の学校なので

まぁなにから何まで不要

 

余計なこと学ばなくてイイ

わざわざ足かせになることを刷り込ませる必要はない

 

学校なんて行かなくて問題ない

困らない

 

困った時に初めて学びの必要性を理解する

何が本当に困っていて

何が必要なのか

 

その時になって考えればいい

 

この考える癖を身につけ

自分なりの考えを吐き出す

 

正しい答えじゃなく

本当の自分の気持ち、考えを吐き出す作業

これができればいつだって生きていける

でもこれが難しいんだ

 

そしてその吐き出した考えから自分の目的を見つけ

それに見合った行動を起す

 

この繰り返しで娘達は成長する

私はこれでいいと思っている

というより

これが全ての核心

 

だから学校へ行ってあれこれインプット(学習)させられるよりも

まずはアウトプット(行動)して

それに必要なことをインプットするればいい

 

あぁ~やっぱり学校のシステムとは真逆の発想だ

アウトプットが先でインプットは後

 

これが娘達にとっても納得のいく現実で

私達が求めた答え

 

だから

不登校になる

不登校になりそうだと不安に感じていると

不安な現実がどっと押し寄せるよ

 

それよりどんな学びが得られるかなって

ワクワクしながら子ども達を見てあげて

 

そしたら本当に学校へ行きたい子どもなら

親のワクワクした表情に引き寄せられ

嫌なことはどっかに行ってしまうから

 

または親のワクワクに引き寄せられ

子ども自身も自分のワクワクを求めて

違う場所を求め探しに行くかも知れない

 

不登校=危険ではない

新たな発見

課題の見つけるチャンス

 

この課題を見つけることを面倒だとか

考えることが辛いと感じる時は

今までに自分がそれらをやった経験がないということ

 

不安に感じる時は

物事を自分の頭で考えていないということ

 

周りに決断を委ね

答えを求めて生きてきているということ

 

これがどういうことかは

自分で考えて決断し行動すると

体感し府に落とすことができるので必然的に理解できる

 

だからそれを学ぶために

何度でも自分で考えないと前に進めない現象が現実が

何度も目の前にやってくる

 

でも大丈夫!

一度経験すると分かるから後は楽ちん

体験して自分のものにすれば

自分の力になりその経験が使えるものになる

 

あっ怖くない

大丈夫だってね

 

不登校になりそうなときは

よ~く考えてみて

 

何が大切で何が望みなのか

それは子どものためなのか

親自身のためなのか

 

自分の頭でちゃんと考えて答えを導き出せば

どんなことにもブレずに生きていける

 

それは自分軸ができることにも繋がる

そしたらどんどん生きることが楽しくなる

 

はぁ~相変わらず

私は今が楽しい🎶

 

ようやくモヤモヤしていた感情が吐き出せた

あれこれ考えるんだけど吐き出さないから

分からなくなる 見失うんだよね

 

これでスッキリ!

 

また吐き出します!

心が沈みかけているためひと休みします 今の私に必要なことは立ち止まること⌛

★元の体調に戻れないだけでこんなにも心が沈んでしまう

夏風邪を引いてから約2週間

食事も以前より少し少ない程度ではあるが

元の食生活に戻りつつある

 

さすがにお粥とお味噌汁がメインの回復食では

活動するにはエネルギー不足

 

なんとか元の体調に戻したくて

最近お粥とお味噌汁の食事を卒業した

 

在宅ワークは1週間程度休んでいた

それ以上休むことも可能だったが

休めば休むほど感覚を取り戻すのに時間がかかりそうだった

 

それに完全復活するのを待っていては

時間がかかりそうで予定が立たなかったので

1週間をめどに

少しずつ体調と相談しながら

在宅ワークの仕事に復帰した

 

私が取り組んでいる在宅ワーク

基本一日のノルマはない

 

取り組んだ作業分だけが成果報酬としていただける仕組み

だから作業しなければ報酬額が少なくなるだけ

別に大して困った事にはならない

 

それでも自分の中にノルマを設定しているため

仕事復帰した時はかなり疲れてしまった

まだまだべき思考も強く

病み上がりな状態なのに

がんばらなくてはと思い込んでた

 

自分の好きな作業のはずなのに

パソコンに向かって作業している体勢が

体にはしんどくてパソコンに向かえない

通常のノルマがなかなかこなせなかった

 

それでも少しでも取り組めたら

”なんとかがんばれたね!”って

そうやって自分を褒めながら慰めながら作業をしていた

 

それでも復帰して1週間が経っても

なかなか体調が以前と同じまでには回復していかないためか

次第にメンタルが落ちていった

 

自分のメンタルがこんなに沈んでいるのは

何年ぶりだろう・・・

 

鬱状態とまではいかないが

あまりよろしくない状態

 

今まで普通に出来ていたことが

かなりがんばって気分を持ち上げないと取り組めない、出来ない

この状態がかなりストレスだ

 

毎日のルーティンが体調不良でことごとく

進まなくなるだけで

こんなにも自分にダメだしをする

 

自分にいささか厳しい一面があるため

自分で自分を追い込んでる

 

病み上がりで上手くいかなくて当たり前

そうと分かっていても

長年の習慣か自分に厳しい

 

一体どうしたんだろう・・・

沈んだ心に戸惑いが隠せない

 

というより心が動き出せないことに

イライラしている

時間だけが進み焦る

 

メンタルが沈み、この状態が続くと

精神疾患の母のように病気に逃げるようになってしまう

 

近くに見本が存在するため

簡単に想像がつく

 

今のままではよくない

なんとしても抜け出したい

 

そう思いながらも沈んだ気分を持ち上げられない

何かして楽しもうという気にもなれない

 

今まで何をどう楽しめていたかさえ

分からなくなってしまった

 

そもそも楽しめていたことがあったんだろうか

なんて考えるようになり

ちょっと面倒くさい感情が膨れ上がっている

 

 

娘達の将来の不安を解消するために始めた在宅ワーク

自分の思考の整理をするために書き続けているこのブログ

知識を得ることが好きで本を読むことが好きなはずなのに

読んでいても頭の中に入ってこない読書

 

体も疲れているが

頭も心も疲れているよう

 

不登校児の親として

いろんなことを見直し

自分との対話をずっと取り組んできた

 

でもどうやら少し変化が必要らしい

今のままでは行き詰まるよ

そんな風に言われている

 

何かが違う

どう修正していけばいいんだろう?

 

あれもこれも

自分の好きなこと

自分らしさを追い求めて

次から次へと手を出しすぎたのかもしれない

 

そろそろこの辺で安全点検をしなさいって

今一度自分の中で優先順位をつけなさいって

言われているよう

 

やらなきゃいけないこと

やりたいこと

本当に自分にとって必要なこと

ゆっくり考える時間が必要らしい

 

ずっと考えてきたつもりなんだけど・・・

そうでもなかったのかな

 

どこをどう点検したらいいのか

いまいち分からない

 

わからないってことが

いわゆる 時間が必要だってことの証明

 

学生の時からずっと走り続けてきた

自分との対話なんてしたことがなく

考える事が苦手な私は

暇な時間が苦手

 

思考すれば大概ろくでもないことしか考えない

すでに今もあまりろくでもないことを考えている

 

ネガティブなことを考える時間があるなら

考える暇を与えないくらい

走り続けるタイプ

 

でも立ち止まれって言われている

誰かに言われている

 

とりあえず今がしんどいぞ!

 

ちゃんと現実と向き合い

優先順位をつけ

一つに集中しろって言われている

 

立ち止まることは怖い

変化に随時対応して

あれこれ行動し動き回っている方が楽なんだ

 

だからずっと動きまくってきたんだけど

年齢的なものもあるのか

体がついてこなくなった

 

ここ最近

血行不良という形で体もサインを出してる

体も頭も心もみんな繋がっている

 

今までがんばった

ちょっとくらい立ち止まって

自分の心を見直したって

どうってことない

 

今それが必要なんだから

それに従うしかない

 

だから少し立ち止まる

思考の整理も大切だけど

単純に自分のこの先を考えなきゃいけない時期に来た

 

パソコン作業も体にとってはかなりの負担

このまま続けていいものかも

ずっと気になっていた

 

 

というわけで少し立ち止まる

上手く自分と向き合えるかは分からないけど

心と体が辛い状態で

このままがんばっても

きっとすぐに強制終了させられる

 

それに私が立ち止まる姿は

娘達にもお手本になる

 

あんまり親ががんばりすぎて一生懸命過ぎると

子どもも同じように

常にがんばらなきゃって思い込む

 

ほどほどに手を抜くことも

学んだほうがこの先きっと楽だ

 

たまには情けない親になろう

それくらい

ゆるく生きたい

 

がんばってる方が張り合いがあって

楽しい気分になれることを知っているんだけど

 

それでもやっぱり無理をしてるから

疲れてしまう

 

辛いときは逃げよう

私は今までそうやって自分で逃げる選択もしてきた

親になったからって

逃げられないわけがない

 

とりあえず

考える時間を作ろう

 

行き先が分からなくなったから

一度立ち止まってゆっくり考える

これが私の選択して出した答え

 

いいも悪いもない

 

こうやって自分に言い聞かせないと

逃げることが悪いって思ってしまう

 

きっと子どもの頃からの習慣

 

でもそんなことは無視して

今は立ち止まる

 

そんな時もあっていいんだ

とりあえず少し身軽になろう

 

ひとまず立ち止まる

そして ひと休みする

 

また動き出したくなったら

楽しめるようになったら楽しんだらいい