何を食べたかで人生が変わる  

毎日こころ豊かに グルテン・カゼインフリー 米粉・大豆粉・オートミールに助けられて生きている

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出来ない事は出来る人がやってくれる 自分の過去の体験談で納得する

★過去の自分への自問自答が不安を解消してくれた

幼い頃何もさせてもらえなかったため

何も出来ないんだと思い込んで育ってきた

 

大して好きでもないことが案外良く出来たときは

それを強みにしようとレベルの高いことを教え込もうとする父

 

幼い子が楽しんで遊ぶことにさえ

先を見据えてわけの分からないレベルを要求する

 

今できること できたことには目もくれず

多くを期待し要求され

期待に応えられないと

”出来ない子”と言われる

 

だからいつまで経っても褒めてもらえず

褒めてもらえた記憶があまりない

 

今なら言える

 

あなたはそんなに何でも完璧に出来たのか・・・

満遍なくあれもこれもと出来たのか・・・

 

残念ながら

幼い頃の私はそんな反発した考え方にもならず

全てを受け取り押しつぶされていった

 

私は親に”出来ない子”というレッテルを貼られ

そのレッテルを信じ自信をなくし

出来ないことがどんどん増えていった

 

自信がないから何をやっても上手くいかない

”出来ない”が前提にあるからがんばる気にもなれない

 

そして好きでもないことも出来るようにとさせられることは

苦痛だった

私は子どもの時から勉強は嫌いだ

何かを上達させることも好きじゃない

 

いつだって 

”どうせ” ”でも~” ”だって~”

そんな否定的な感情が心に存在した

 

思い返せば・・・

不登校になる前の娘達によく似ている

いつも不安で自信のない姿

 

自分の過去と重ね

不安を抱える娘達を慰めるように

根拠のない”大丈夫”という声がけをする

 

でもそれがかえって娘達を傷つける

私もその言葉に根拠がないことを知っているため

”大丈夫”と声をかければかけるほど不安になっていく

 

だって

”何がどう大丈夫なんだろう?”

心の中ではそう感じている為

娘達に伝わっていたんだろう

 

娘達が抱えている不安、心配を

言葉一つで片付けようとしていることが伝わる

 

自分達の事を理解していない

理解しようとしていない

そう感じる

 

そして

存在しない不安に押しつぶされ

自分がどうして出来ないのか

何が出来ないのかもよく分からなくなり

とりあえず”出来ない”という壁を

大きく自分の前に建設する

 

そして何もやらないという選択をして

与えられたものの中で妥協しながら生きる

 

幼少期の私も不登校になる前の娘達も似ている

やっぱり親子なんだ

 

考え方、物の捉え方は受け継がれる

自信のない親に育てられた子どもは

自信のない子に育つ

 

私の母親と私と娘達は

みんなそろいもそろって自信がない

 

過去の私もついこないだまでの私も

現実に対して自分が妥協してということにさえ気付いていない

 

ただ 出来ない自分が悪い

これで全て思考はストップ

 

夢を見ることも

欲を持つことも

実は子どもの頃から学んでいない

 

両親が自分達の経験を元に

夢を見ることも

欲を持つことも

私には良くないと教えてきた

 

それは

がっかりさせないため

辛い経験をさせないため

絶望感を味あわせたくないため

 

辛いことや悲しいことから守っているかのように見えるが

私にとってはそうじゃない

 

親の価値観に守られ育った私は

単に自分で決めて経験するという体験を奪われたに過ぎない

 

私にあるのは指定された中での選択

そして親が安心できる範囲内の体験だけ

 

結局両親が自分達が経験して体験したことの

否定的な部分にフォーカスしすぎて

良い経験も悪い経験も私からごっそり奪っていった

 

だから余計に娘達には 

私が出来なかった分を体験させたい

 

何でも出来る時期 

何でもやりたい時期

いろんな行動を起こして体験できる時期に

親からの一方的な価値観で体験に制限することは間違っている

 

そう思い逆にいろんな事をさせよう、させたいと思い

できる限り惜しみなく与えた

 

でも結局反面教師は裏目に出た

自分が出来なかった分やらせたい

でも娘達はそれを必要と感じていない

望んでいない

 

両親が私に次から次へと高望みして期待してたことと

同じことをしている

 

私の場合は

あれがいい、これがいいと

外からの情報を娘達に本当に合っているかどうかもよく考えず

何でもかんでも取り込み詰め込んでいた

 

自分が体験して来れなかったことを悔やみ

その体験を取り戻そうとするかのように

娘達を使って自分を慰めようとしていた

 

自分がイヤなことはさせない

自分が良いと思うことはさせよう

あの時こんな思いをしたから娘達もきっと同じだろう

いつも私の過去が基準になりジャッジが入る

 

でもそもそも体験する人が違うのだから

良いも悪いもない

 

それを分かっていないから

実際に判断を下すのは娘達ではなく

私になる

 

娘達のやりたい体験の時間を奪い

過去の自分が出来なかったこと

やりたかった体験を今娘達にさせようとしているのは

何故なんだろう?

 

それは出来なかったという過去への執着

出来なかったことが悪いと思っているから

矛盾が起きている

 

だから本当に出来なかったことが悪い結果を生んだのか

考えてみた😏

 

 

私は配膳の動作が嫌い

食事をする際の料理を取り分けるといった動作

この動作を人に見られるのが嫌いで

大勢で食事をすることは特に苦手

 

女なのにお皿を配らない

料理を取り分けない

いつジャッジされるか不安で

そういった場面をできる限り避けていた

 

もちろんそういった場面から逃げられない時もある

その時は黙って何もしない

役に立たない人になる

 

その当時は自分には変なプライドがある

そうやって考えていた

 

でもプライドじゃなかった

 

どうやって人の目に映るのか

どうジャッジされるのか

怖くて動けなくてるのを知っていたため

その恐怖から自分を守っていた

 

でも特別気にしないときもある

それは何だろう?

 

思い出した!

大学の時に仲良かった友人とのやりとり

 

”配膳や取り分けが苦手ならやらなくていいよ”

”私は出来るから私がやるよ”

そうやって出来ない私を笑うこともなく

助けてくれた

 

”出来ないことは出来る人がやればいいんだよ”と

友人は教えてくれた

 

それからその友人とは何でも話せる関係になった

 

私はそれを期に

ある程度自分の出来ないことを伝えられるようになった

 

笑いながら悲観的にはならず

どちらかと言えば開き直って

 

自分のマイナスな面を

包み隠さず話せる友人が大学の時には数人いた

 

その友人達は私の全てをそのまま受け入れてくれた

良いところ悪いところ

全てにジャッジはせず

受け入れてくれた

 

この子はこんなタイプの子ね

それで事は治まった

 

私は自分と波長が合う居心地のいい友人とだけ関係を築いていた

大人になるとそれが可能になる

だから私は大学生から結婚するまでの間は

人間関係にさほど苦労した記憶がない

 

イヤなときはすぐに逃げ出す性格なため

我慢はしなかったから

 

そうか思い出した

大学に入った頃はもうだいぶ親の手を離れ自由に行動していた

 

いろんな人と関わりいろんな経験もしてきた

自分一人では出来ないから友人達と一緒に経験させてもらった

 

私は自分に合った友人達に育ててもらったんだ

今こうやってブログを書きながら気付いた

 

私にとって大学の時の友人は今でも友人だ

滅多に連絡は取らないが友人のままだ

 

人に対して怖いという印象を持っていなかったのも

この時期だ

 

私は自分を守ってくれる友人を

自分で周りに集めていた

 

私の人生 楽しかった時もちゃんとあった

あの頃 楽しんでた

 

たぶん両親の元へ同居するために帰ってこなければ

案外問題もなく幸せだったんだ

 

ただ 今友人の存在に感謝しているので

この時期にならないと私は感謝しなかったのかも知れない

 

過去を振り返ることが極端に嫌いで負のイメージしかない

なぜだか分からないが嫌いだ

 

だけど今回友人達に守られていたっていうことに気づけた

これはとってもHAPPY😊

 

過去に戻って記憶を見ることもそんなに悪くないかも

きっと今だから分かるんだ

 

捉え方、考え方一つで物事はいろんな結果を連れてくる

自分の考え方一つで現実は変わる

 

私の出来ないことはいつも誰かが代わりにやってくれていた

だから私は今生きている

 

そして私は友人が私にしてくれたように

私の出来ることで誰かを手助け出来れば

それでいいんだ

 

あの時なんでも完璧に出来ていたら

友人は私の友人ではなかったかも知れない

 

そしてら出来ない事が人との”縁”を連れてくるのかもしれない

 

そう考えたら

娘達の”今できないこと”は

いつか誰かとの縁に変わるアイテムなのかもしれない

 

そしたらそれを無理に出来るように努力する必要はないって

理解できるようになってきた

 

いくら本で

”出来なくてもいい””大丈夫”

と書いてあるものを見つけ安心を得ようとしても

どこか納得いかない部分が正直あった

 

でもこうやって本当はどうなんだろうって考える習慣が

少しづつ不安を消していく

そして気付かなかった感謝の気持ちにも出会えた

 

自分で体験し自分の頭で考え答えを見つける

この作業の繰り返しでどんどん解放されていく感覚

私はこの感覚を今学んで体感している

 

これがとっても楽しくて心地いい

そして負の感情が少しずつ幸せの感情に

塗り替えられていく

自分で塗り替えられることを知った

 

私は以前より断然自分の機嫌を取れるようになってきた

これこそ継続は力なり

 

幸せを感じたければ

幸せになりたければ

過去の自分と今の自分

全ての自分と対話すればいいんだ

 

なんか危ない奴になってきたかも🤭

 

でもこれが今の私なんだ 

そしてなりたい自分に近づいている

 

人生は既に決められていて

起こる出来事をどう捉えるかで幸せか不幸せかになるだけ

 

幸せになりたいなら

幸せに物事を捉える訓練をすればいい

 

この訓練の姿を娘達に見せていこう

そしたら私はこれからもっとHAPPYになり

そのHAPPYな姿を、背中を娘達に見せてあげられる

 

この方法なら私にも出来るかも・・・